単身生活オヤジのつぶやき

50近くなって転職、単身暮らしをしているオヤジの視点で、好きなことを書こうと思う。

私の社会人生活・就活編2

「俺は、お前に町の印刷工場を継がせるために大学にやったんじゃない」

この父の一言から、私の短い就活が始まった。

今のようにホームページなど無い時代、当時はリクルート(だったと思うが)から百科事典のような企業名鑑が届いていた。業種も何もロクな知識が無いので、まずは業種から。

理系をイメージさせるような化学系の会社や数学や経済学をイメージする金融、証券、なんとなくハードルが高そうな商社、マスコミなどもダメ。そもそも、すっかり青田が刈られてる中で、このような企業が解禁後に採用するのかも定かでは無い。相談する友達も無い。縁故もない。どうすんだよ、いったい笑

で、ふと目に付いたのが情報処理産業。今のようにITやICTなどと、オシャレなカテゴリーはない。でも、思いっ切り理系じゃないの。ただ内容を見ると、営業とか企画みたいな仕事も募集してる。で、企業名を見ると日本アイ・ビー・エムとある。なんでカタカナなんだ?IBMじゃないの。このことは後で触れる。

当時の私が何故このアルファベット3文字を知っていたのか記憶が定かではない。2001年宇宙の旅のHALがIBMのそれぞれ1文字前から来ているというエピソードからか。それとも数年前に日本社会を震撼させた産業スパイ事件の知識からか。

ま、いっか。悩んでいる暇もない。ことは一刻を争う。で、一社だと落ちたらシャレにならないので、もう一社。富士通、かな。

私のFBの友達には、後述する経緯から情報産業をフォローしている(いた)記者の方がいるが、当時のIBM富士通の関係からすれば、「おいおい、川嶋、マジか」と思う選択をしたわけだが、いよいよ、この二社をターゲットに私のなんちゃって就活がスタートを切ったのであった。

私の社会人生活・就活編1

ここで就活と書くのは気恥ずかしい。

何故って、これまでの前史でほぼ察しがつくと思うが、私が就活(とも言えないような内容)をしたのは、ほぼ2〜3ヶ月の期間だけだからだ。

そんな私でも社会人(サラリーマン)になれた要因はいくつかある。

一つ目は、私が社会人になった年は平成元年だが、その年の就職戦線(つまり昭和最後の年)は、今年と同じく超売り手市場だった(と思われる。何故って、私はそのことを推測する以外、実感も物理的数値も手にしていないから)ことだ。以前にも書いたが私の同期でも一人で10以上の会社から内定をもらっていた人がいる。なので、私のように解禁日以降に慌てて就活をしても就職できた。

二つ目は、日本経済がバブルの絶頂期にあったこと。日本の株価は史上最高値をつけたし(その後は落ち続け、いずれ総量規制をきっかけに本格的なバブル崩壊が始まるが)、その当時、その後に続く失われた10年だの20年だの、あるいはデフレ社会、あるいはシルバーエコノミーといった状況は当時の経営者や経済学者やエコノミストといったプロでさえ、想像していなかったのではないか。

三つ目は、これは単なる私の感想だが、その当時の就職活動は今のようにエントリーシートがどうだの、インターンシップがどうだの、といったことはなく、もちろんインターネットもない、つまり今の学生が直面している就活と違って、事態はひどく単純、シンプルだったことだ。個々の学生がやらなければいけないことは、皆同じだった。その当時の人事担当者とかが見たら怒られるかもしれないが、「こいつ使えそうだな」程度の感覚で新卒を採用していたのではないか。

ということで次回は、私の短かった就活に触れる(といって触れるほどの内容はない笑)

 

私の社会人生活・前史最終章

しばらく空いてしまったので、久しぶりに更新します。

Hatena Blogのお知らせが来ていたので、見てみたら100PVを超えたとのこと。

果たして100PVが多いのかどうか分からないが、とりあえず気を良くして前史最終章。

私の父親は父母(私にとっての祖父母・いずれも故人)と父の弟3人で印刷屋を営んでいた。

父親は印刷屋からは引退したが80歳を超えた今でも、とっくにサポートの切れたAppleMACパソコンで版下を作成している。この父親のことについては、後日、別の機会に語りたいと思う。良きにつけ悪しきにつけ、私の人生に重大な影響を及ぼした人なので。

それはさておき、私はその家族経営の印刷屋で高校生位からアルバイトを始めた。アルバイトといっても印刷機に紙をセットしたり、仕上がった印刷物を梱包したり運んだりする仕事だから、クリエイティブな印刷業務ではなく、単なる肉体労働。そこで働くうちに「考えてみたら、就職なんてしなくたって親父の会社で働けば、長男なんだし、いずれ社長じゃん」と安易な考えを抱くようになった。

元々、父は寡黙な人で、私にとっては物心ついた頃から、父と何かについて、じっくりと話をするとか、意見を戦わせるといったことは、あまりなかった。父親とのコミュニケーションは専ら、母を通じて行っていたと言っても過言ではない。父は母に対しても同じように寡黙だったので、今は亡き母にとっては、さぞかし迷惑だったことだろう。

ということで、私は自身の進路について父親の意向を聞くことも、自分の考えを相談することもなく、いよいよ大学四年生を迎えることになった。ま、ゼミにも入らないし、学校にも行かなかったとはいえ、遊び呆けていたわけではなく、専ら、自身が興味のある国際政治の分野などの書物を読みあさったりしていたのだが、就職については「親父の会社で働く」と勝手に思い込んでいたのである。

当時の就職活動はもちろん就職協定があったが、その前に大体、優秀な学生は内定をもらい、夏休み前にはほぼ自分の就職先は決まっていたと思う。今のような売り手市場だったかどうか定かではないが、バブルの絶頂期で私の同期でも一人で10以上の内定をもらっていた学生がたくさんいた。何て言ったってK大経済学部なんだからね。

そんな折、いよいよ運命の時がやってきた。

夏休みのある日、母から「ちょっと話があるんだけど」と切り出されたので、何だろうと思ったら「お父さんが『輝彦は就職活動もしないで遊びまわっているが、一体どうなってんだ』と言っているよ」と。「えっ??」で、仕事から帰って来た父に自分が親の家業を継ぐつもりだと告げたところ、「俺は、お前に町の印刷工場を継がせるために大学にやったんじゃない」と、一言。それだけ。

真っ青。おいおい、今更どうすんだよ。

ということで、ここから就職に繋がるので、私の社会人前史はここまで。

私の社会人生活・前史3

今回は若干、長めに。

さて私が入った高校は大学にエスカレーターで進学するにあたり、全教科の平均点で基準が決まっていた。文系であれば、下から順に(当時ですよ)、文学部、法学部政治学科、商学部、法学部法律学科、経済学部、理系であれば(全く興味がないので覚えてないが)医学部が最も過酷な条件だった気がする(確か平均95点以上だったかな)。

ということで、私の今の生業や専門性を考えると、どう考えたって、政治や文学を目指すべきだった。私には数学的なものを読み解く能力が圧倒的に不足(欠如?)している。今振り返ってみれば、例えばマクロ経済のIS、LM曲線では関数の知識や理解は欠かせないだろうし、ミクロ経済では微積分、それ以外にも統計手法とか、いま考えても頭がくらくらする。そのような状態で経済学部に入ったのだから、やる気なくなりますよ。当然。入った理由は至極単純。つまりK大経済学部は民間セクターでは花形なので、就職先に困らないだろう、と。ただ、それだけ。別に、その当時は就職するということを具体的に思い描いていたわけでもないし、後に触れるが就職を真剣に考える状況になかった(と勝手に思い込んでた)わけ。

当時、K大学経済学部は一年で経済原論1(マクロ)、原論3(マルクス経済:当時はまだ共産主義は完全に崩壊していなかったので、れっきとした経済論として勉強した)、二年で経済原論2(ミクロ)が必須科目なのだが、いずれも単位を落とすことになる。で、原論2を落とせば三年になったら通う都内のキャンパスではなく、わざわざ神奈川の日吉のキャンパスに通うことになる。

結果、学校から足が遠のくばかり。今では昔のサークルの仲間と旧交を暖めるようになったが、サークルからも足が遠のき、ゼミにも入らずじまい。ただ、救いだったのは、そういう状況でも今でも交流のある高校時代からの友人、中野くんが例えばテストの過去問とかの入手方法を教えてくれたり、私の代わりにコピーを取ってくれたり。随分と助けてもらった。当時の過去問というのは恐ろしく、過去5年とか10年にわたって試験問題の傾向とか、単位が取れる対策とかが解説してあるものもあり、驚いた記憶がある。

で、いよいよ就職となるわけだが、ここでも私を困った問題が待ち受けていることになる。その顛末は、前史最終章で(って、勿体ぶるほどの歴史ではないが)

私の社会人生活・前史2

私の行きつけのまるたけ店主の石山君から、次はいつですか?と言われて気を良くしたので、前史2です。

受験を2度したくない、自分を見くびった担任を見返したい、というだけで入っただけだから、目標を失うわけです。次の目標は大学で何を学ぶかになりそうなもんですが。

当時、私が進学したK大は経済、W大は政治みたいな住み分けがされていて、じゃあ、やっぱり経済学部だろう、と。そこで、また将来を見誤ったわけですよ、私は。

ということで前史3に続く。いつになったら本史になるんだろう。また挫折するかも笑

私の社会人生活・ブログ再開の理由

妻から「ブログ再開したんだね。なぜ今なの?」と鋭い突っ込みがあった。

私の社会人生活は順風満帆とは程遠いものだった。ただ、私が社会に出た頃(平成元年)はバブル崩壊が間近に迫っていたとは言え、将来に夢が持てる時代だった。

それから失われた10年とも20年とも言われる月日が流れ、財政難、少子高齢化といった私たち以前の世代が作ったツケを子供達に負わせ、その子供達はグローバル競争とロボットや人工知能がもたらす未知の世界で生き、戦っていかなければならない。

今、自分の娘が就職活動に取り組むようになり、娘も含めた若者達に、私が社会人としてどのように壁に抗い、乗り越え、今もなおもがき苦しんでいることが少しでも生きるヒントになれば、そんな気持ちが湧いてきた。ということかな。

 

私の社会人生活・前史

社会人生活を振り返る前に、若干の前史を。
そもそも中学まで公立で過ごし、高校受験をする際に「受験など人生で二度も経験したくない」という単純な理由で、大学までエスカレーターで行ける道を選んだ。
無謀にも有名私立のK大学の付属男子校をターゲットに定めて、中学二年から猛烈に受験勉強。とは言いながら、元が優秀なわけでもないので、偏差値は当時で60台前半がせいぜい。
選んだ高校は10以上も偏差値が上。担任どころか学年主任まで猛反対。
父親の「親が受けさせると言ってんだ。学校の先生が口を出すな」の一言で受験。結果、都立の難関校H高校も含めて、滑り止めにしたK大学付属高校も含めて全て合格。
報告した担任の第一声「うっそー!」が今でも忘れられない(笑)。ざまあみろ、参ったか!?凱旋将軍の気分で卒業前に職員室に挨拶に行くと、学年主任は仏頂面でまともに目も合わせず。

で、いよいよ入学式となったわけだが、当時の付属高校は1学年800人、全員、男子。なんとクラスがAからRまで18。おいおい
中学は公立のためもちろん共学。別に取り立てて共学が良かったわけではないが「やめればよかった。滑り止めにしたK大学付属高校にすれば良かった」
ここから、私の長い迷走の高校大学時代に突入するのでありました。